夜雨
「夜を吸った雨が、こうやって街に降るのを見ているのが好きなの」
霧みたいに細かい雨に頭と肩を湿らせながら、彼女はそう言う。
「夜を吸う?」
「木の枝。アスファルト。静かな雨音。私の中の、他のどんなものにも癒すことのできない部分も、夜の雨にだけは気が許せる。そして雨のほうも、優しく手をそえてくれる。他の何にも望みはしないことだけれど、そういうのって素敵だと思うの」
彼女と僕はベンチに座り、山の冷えた空気に白く息を吐いていた。
僕等の他には誰もいない。皆、雨が降り出した頃にロープウェイで山を降りていった。
「僕にも癒せない?」
首を傾げ、彼女の目を眺める。彼女は目を細め、薄く笑みを浮かべた。そして首を振る。
「あなたにはたくさんのものを貰ってる。教えられてる。でも、できないこともあるわ」
「……それでも、痛む傷跡に手をあてることくらいはしたいよ」
彼女はうつむき、夜闇に広がるイルミネーションのような街の灯りを眺める。その横顔が、彼女自身の長い黒髪によって隠された。
「ありがとう」
「……どうしようもないことかもしれない。けど、少しだけ残念に思う」
「いいのよ。他の誰かにできることなら問題だけど、誰にもできないことなんだから」
そう言って彼女は黙る。夜に押し潰されてしまいそうなほど、その姿は頼りない。
僕は空を見る。姿の見えない雨が、それでも確かに、僕と彼女に降り注いでいた。
きっと僕は気にしすぎなのだろう。それが彼女に余計な負担を与える。それは、分かるのだ。それでも、僕は痛々しいくらいに考え続ける。そこに、どんな正当性があるのかも分からないままに。
「もしかすれば」
彼女がぽつりとこぼすように呟く。
「それは癒されるべきものじゃないのかもしれない。必ずしも、治るべき傷跡ばかりがあるわけじゃないわ」
「癒されるべきではない傷跡」
「かもしれないわね」
「君の言う言葉は、たまに僕まで届かないことがある」
僕がそう言うと、彼女は肩を上げて可笑しそうに笑った。
「あなたは幸せなくらい正直な人」
「そうかな……」
「感謝してる。夜の雨だけじゃ、私は私を保てないもの」
彼女の頭が、僕の肩に置かれた。
か細い雨は降り続ける。
その雨に、いったいどれだけの夜が吸われているのだろう。
僕に染み込む夜の雨は、僕の中の何を癒すというのだろう。
静かに目を閉じて、僕は彼女の頭に寄りかかった。
| 固定リンク
|


コメント
多分、2年は昔の創りもの。
手抜き甚だしいけれど、今の自分にはもう書けないような何かが、あるような気がする。
投稿: 逢崎 | 2008年4月18日 (金) 00時29分
なんてすてきなふたりの会話。
互いに慈しみ合っている感じがしました。与えられるやさしさを、同じくらいのやさしさでそっと遮る《彼女》の想いがとても率直で、きれいで、女の子らしい。
なんだか、雨のにおいすらしてきそうな、冷えた空気が肺に流れ込んでくるような、臨場感ある文章。短いながらもこれだけ心届くものが書けるなんて…。見習いたいです(_ _)
投稿: エス | 2008年4月21日 (月) 20時27分
逢崎さん!こんばんは!
小説読んでくださって、丁寧で的確なコメントまでくださって、本当に有り難う御座いましたm(_ _)m直ぐに感謝の気持ち伝えたくてお邪魔してしまいました。私事でごめんなさい。
投稿: エス | 2008年4月21日 (月) 22時25分
こんばんは、エスさん。
ずばずば言い過ぎてやしなかっただろうかと少し不安でした(笑
うーん、触発されて、何か書きたいなあなんて、思うには思うんですけどねー…
なんとなくまわりの色んな物事が動いていて、腰をすえて創作、という感じにならない…。
困ったものです。
投稿: 逢崎 | 2008年4月22日 (火) 00時58分