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2008年4月24日 (木)

【水彩の森】

・前書きという名目の言い訳

これは、自分が二十歳になる証として、書こうと決めて書いたもの。
十代最後の、二十代最初の、文章。

ネタがなくてこんなものまで引っ張り出してきたか……という冷たい自分の目に耐えつつ、載せる。

【水彩の森】

 十年前。

 十年前を思い出そうとしてみても、なんだかとても漠然としていて、掴みどころが無い。
 そもそも少し前までは、自分が「十年前は」なんて言葉を使うことを想像をしてもいなかった。自分の立っている場所はずっと変わらないで、私を取り巻く世界も時間を進めているフリをしているだけで、何処にも行けないんじゃないだろうかと、そんなことを思っていた。それは、今に至っては半分だけ当たっている。私だけは、いまだに何処にも行くことができていない。何処にも私を、私として迎え入れる準備をしてくれている場所は無いのだ。至極当然といえば当然のことで、私はそのことに気付くまでに何人かの友人を失った。
 声の大きい、自己中心的で虚栄心の強い人が私を指差して、「それがきっかけなんだ」とでも言ってくれない限り、私には何が原因で何が悪かったのかを知ることはできそうにない。そもそも私をとりまく問題が何なのかさえ、私には思いつくことができない。それは聡明だとか、愚かだとかいうレベルの話じゃない。多分、私にはそういう問題を感知して修繕する、といったことにかけての能力が(おそらくは致命的な部分で)欠落しているのだ。それは私の中で、自覚することすらない。
(尻尾が無いことに違和感を感じる人間はいない)
 退屈な比喩だけど、要はそういうことだと思う。本当に、退屈な、比喩だ。
 ともあれ、私には時間だけがある。歌の仕事を別にすれば、二十四時間からそれを引いた差分はすべて、私の周りを退屈に浮かんでいる。ゆっくりと思い出せばいい。今、私の頭の中で泳いでいる十年前、という事実を。

 ×月 ×日

 日記を閉じて窓ガラスの向こうの夜を眺めていると、赤い点滅と共に電子音が鳴り始めた。私は天井を眺める為に、事務用の椅子に上体を預ける。甲高い音を立てて、椅子が軋んだ。何も無い。コンクリートの天井がそこにある。
 灰色。それは白と黒の中間じゃない。白と黒は、もっともソリッドな存在であるべきだと、私は思う。灰色は、そこから生まれはしない。そう、思う。
 十一回目の電子音が途切れる前に、私は机の脇に置かれた白い電話の受話器に手を伸ばし、頬に近づける。指先が、ひやりと頬に触れた。
「はい」
「ずいぶんかかったけど、寝ていたの?」
 落ちついた、アルトボイスの女性の声。松内さんだった。私の、マネージャーのような仕事をしている。といっても、恐らく私以外の人のマネージャーをやっている時間のほうがよほど長いのだろうけど。誰かの活動のために仕事をする、というのはどういう気分なのだろう。
「ううん……天井を見ていました」
「天井?」
 日記の白いハードカバーの、ざらついた表面を中指の腹でなぞる。
「仕事ですか?」
「ええ……まあ、そう仕事よ。でも、天井って何か興味を引くようなものがあったかしら?」
 私はもう一度天井を仰ぎ見る。椅子が軋んだ。
「……ただの天井ですね。灰色で、堅そうで、冷たそうなコンクリートですよ」
「でも電話を取るのを先延ばしにしてまでも、それを眺めていた?」
 もしかして、怒らせてしまったのだろうか。
「あの……待たせてしまったんなら、すいません」
「ああ、そうじゃないの。貴方達は感性の人だから。そういうのって大事よ」
 そう言って、松内さんは電話の向こうで上品に笑う。私にはできそうにないような、品の良い笑い方だった。そもそも、私はあまり笑わない。理由はよく分からないが、いつからか(もしくは生まれついた時から)私は上手に笑う方ではなかった。それで困るようなことは稀だったから、私はそれについて深く考えたことも無い。笑うときは、いつも風邪で咳き込むような笑い方をする。
「もしもし?」
「あ、はい」
「さっきの通り、仕事よ。急にスタジオが空いたから、前倒しで収録しようってことになったの。今からだけど、大丈夫?」
「平気です。いつもの場所ですか?」
「ええ。それじゃあ、あなたが着き次第始められるようにしておくわね」
「はい」
 少しして松内さんが電話を切るのを待ってから、受話器を置く。
 ため息を残して、私は地下室を出た。

 コンクリートの階段を抜けて重たい防熱扉を開けると、緩んだ空気がオレンジ色の照明と共に流れ込んできた。私はフローリングの床に足を踏み出し、ドアを閉める。ソファとテーブルだけが置かれた、この家のリビングだ。
「こんな時間に仕事? 忙しいねえ」
 二階に上がる階段のドアの前に人がいた。ちょうど、今私が立っているような状態だ。少し目の釣り上がった、ショートヘアの女性が皮肉そうに笑っている。肩の開いた薄いTシャツにジーパンという格好は、私とまったく同じだった。違うのは向こうが黒で私が白だということだけで、表情を別にすれば、髪型も顔の造りも私とまるで同じだった。骨ばった細い体も、ほとんど変わらない。
 私の、双子の姉だ。
「もう寝る時間なんじゃないの? ヨウは」
「描きたい気分になってね。こんな時間にパッションが湧くのも珍しいんだけど、まあ……面白いものが描けるかな、ってさ」
 そう言い、ヨウは唇を吊り上げたままキッチンに入ってやかんに火をかけた。

 姉はヨウで、私はイン。勿論本当の名前じゃない。そう呼び合おうと言い出したのは、姉のほうだった。大抵の双子のように、私達の境界は曖昧でも明確でもなかった。また部分的には、そのどちらかだった。
「どうせ私達しかいないんだ。記号っぽいほうが、いっそスッキリするってもんさ。インとヨウ。分かり易いじゃない」
 私達二人はテーブルを挟んで向かい合い、あらゆることを取り決めていった。互いの生活に合わせることはせず自由にいこうと決めたが、結局私達の波長は何処かで繋がっているようで、食事のタイミングが重なることなんかは多々あった(ただそれは、私の朝食が姉の夜食であったりもしたが。或いはその逆も)。
 考え方は姉のほうが革新的で、私は漠然とした保守的であるような気がしている。こういう案はどうだ、これはどうだ、というようにして姉が草案を次々と生みだし、私達は二人でそれを固めていった。私が生活をする上で自ら提案したことは、私の部屋は地下がいい、ということだけだった。それほど多くない古美術品をかたずければ、それはちゃんと部屋になるはずだと踏んだのだ(そして、それは理想以上に私にとって好ましい部屋となった)。その案に関して姉は特に反対しなかった(よくあんな風の通らない部屋を好き好むもんだ、と呆れられたりはしたが)。   こうして私は地下に、姉は二階に住むことになった。その生活も、あと少しで一年になろうとしていた。このまま何も変わらなければ、ずっとこのままでも生きていけるような気がする。そのくらい無理の無いバランスだった。
 ヨウは絵で。インは歌で。このスペースを保っていた。それはまるで始めから決められていた筋書きであったかのように、互いに違和感を持つことなくその分野での居場所に向かって行った。
 そして世界は、それほど渋ることなく私達を受け入れたのだった。

「しばらく描いてるけど、夜食でも作っていようか?」
「ううん」
 キッチンから戻ってきたヨウに、私は首を振る。そしてソファにかけてあった青いマフラーを取り、少し緩めに首に巻いた。
「いつ終わるか分からないから」
「真面目だね、インはいつも。頭が下がるよ」
 ヨウといる時に、私は一番自然に笑うことができる。或いは、それは双子の関係が持つ特殊性なのかもしれない。
 少し苦笑して腰までのコートを羽織り、私はヨウに留守を頼んで家を出た。
 玄関のドアを閉める時、キッチンにいるヨウはやかんから涌き出る蒸気を真剣な眼差しで見下ろし、私の「行ってきます」という声に反応することはなかった。私はその様子をぼんやりと眺めていたが、やがてドアはゆっくりとした速度でその間を遮断した。私はしばらくドアの向こうのヨウを見つめていたが、思い出したように生暖かい住宅街の夜に振り向いた。

 電車というのはどこか、心を許してはいけない危うさというものを隠し持っているような気がする。心地の良い振動に身を任せながら、私は右から左へ流れて行くビルの光を見つめてそう思った。
 私はもともと、都会の電車が好きではない。それは乗る立場として、という直接的なことだけじゃなく、ギュウギュウに詰め込まれた人間の塊を無表情で運び続けるそのスタンスに、震えるようなおぞましさを感じるからだ。どんな人間でも、乗る以上は同じ荷物として扱われる。そこにはそれ以外の価値を奪い去られてしまう狡猾なシステムがあって、誰もそれに逆らうことはできない。だから電車に乗っている間は何を考えたって無に帰してしまう。そういう危うさを、私はこの乗り物に感じるのだ。だから、好きになれない。恐らくは、子供のような発想なのだろうけど。
 ふと自分の乗っている車両の隅に目をやると、浮浪者の格好をした男(恐らくは浮浪者なのだろう)がシートに横向きに寝そべって、腕を組んで眠っていた。
眠っている。あらゆる衣類に包まれた上半身が、ゆっくりと膨らんで縮んだ。五十を少し越えたくらいだろうか。口元を一文字に締め、厳しい表情で目を閉じている。
 私は視線を閉じた膝の上に落とし、目的の駅の名前が読み上げられるのをただじっと待つことにした。それ以外に何をしようとも、その意味は電車の外に放り出されてしまうのだから。冬が過ぎるのを待つ森の動物のように、私は私である全てを押し隠してその瞬間を待ち構えた。

 十分かそこらで、駅の名前が呼ばれる。私が車両から降りる時にも、浮浪者はさっき見た時と同じようにしてシートに横になっていた。それはまるで初めからこの車両に取り付けられている備品であるかのように、自然な光景のように感じられた。彼はずっとあのまま、ぐるぐると回り続けるのだろう。それはある種とても羨ましいことなのかもしれない。ふとそんなことを思い、私は改札を出た。

 何処のスタジオも、決まって新築の木造の家の匂いがする。それは私が行ったことのあるスタジオ全てに共通することだった。長いところだと、それに煙草の匂いが混じってきたりもするのだが、このスタジオはそうでもない。喫煙者そのものの絶対数が、少ないようだった。
 私はコートを畳み、ミーティング用の机の隅に置く。
「歌詞と譜面はこれ。いつもの感じ、でいいから」
 松内さんが何枚かの用紙を私に手渡す。こんな時間でも、上下のスーツを着崩さずに着ていた。今スタジオにいるスタッフの中で、一番会社員らしい格好をしているのかもしれない。他の人は(殆ど男性だということを差し引いても)、くたびれたトレーナーやセーターにジーパン、と言った服装だった。私も人の事は言えない格好だが、こういう場所では松内さんのような人のほうが少ないのではないかと思う。
 松内さんは、長い髪を頭の後ろでまとめてバレッタで止めていた。耳の後ろから肩にかけての線が、なんだかとても女性的であるように感じられた。ただ細い私の首とは、何かが決定的に違うのだろう。
「どうしたの?」
 松内さんが、小気味良く首をかしげて私に問い掛けた。軽快な問いだ。自然に答えてしまいそうになり、私は言い淀んで、
「なんでもないです」
 と答えた。
 若いスタッフ(と言っても私よりは二つ三つ上なのだが)が良く通る声でスタンバイするように呼びかけ、私は少し安堵しながら返事を返した。

 私の歌には感情がこもらない。少しも、こもらない。あるのは一定の音程と、確実なリズム。それだけだった。それは私が音楽の学校に言っていた時から全く変わる事のないやり方だ。決められた道筋に、段階を定めた声量で、ブレの無い音程で、線を通す。それを繰り返してゆくうちに、歌は終わってゆく。指導員や生徒達に非難される事もあったが、結局はそういう歌い方しかできない私のほうに仕事は巡ってきた。あるいは、私は“それだけは”できた。だから、今こうやって仕事をしているのかもしれない。
 歌詞と譜面さえあれば、練習も何もいらなかった。いつでも、どのスタジオにでも行き、指示されるままに歌った。そうやって一年近くを過ごすうちに私は加速的にその環境に慣れ、歌は前にも増して無機質な完璧さだけが尖っていった。 それが幸せなことかどうか知らないが、少なくとも不幸だとは感じなかった。私にとって歌とはそういうものだし、それ以上でも以下でもないのだ。
 そういうものだと思うことに慣れると、それ以上の欲求は生まれなかった。

 十年前。

 そこに、何があったのだろう。

 収録とミーティングと休憩を繰り返し、その全てが終わる頃には、いつものように終電の走り終わる時間になっていた。
「送ってくわよ。夜道に一人じゃ危ないもの」
 私はご好意に甘えて、いつものように松内さんのスバルに乗せてもらう。
 今日も、収録は滞り無く終わった。どんなものにも需要はある。世界においての要は、それが多いか少ないか、といった程度の差なのだろう。情の入り込む余地の無い、私の歌のように無機質な風が絶え間無く吹き続ける。そういう世界だ。そう考えると、なんとなく気分が湿る。
「もう、一年にもなるかしら?」
 突然、松内さんが赤信号を見つめたまま言った。私は急速に去っていく自分の思考の様子を見送ってから、改めて、慌てて振り向いた。
「……はい?」
 松内さんは何に対してか(恐らく私に対してなのだろうけど)、可笑しそうに微笑んだ。それはやっぱり、上品な笑い方だった。
「あなたがこの仕事を始めてからよ」
 私は「ああ……」と曖昧に唸り、
「そうですね」
 と答える。味も素っ気も無い返答だな、と思う。松内さんはそんな私の無愛想さにも慣れているのか、特に気を悪くした様子は無かった。
 ヨウを別にすれば、今の私のことを一番把握しているのは松内さんなんじゃないだろうか。学校を卒業する少し前に、私はその延長のようにしてこの世界に入ることが決まった。わざわざ(仕事のついで、とは言っていたが)学校まで挨拶をしに来てくれた松内さんは今のような上品な笑顔で、粗末な格好をした私に名刺を手渡してくれた。思えば、あのツルツルとした名刺の固い手触りが、今の仕事の始まりだったのだろうと思う。
「あなたの場合、どう、慣れた? なんて聞くのは違和感があるわね」
「はあ……」
 私の気の利かない相槌で空気の鮮度が悪くなる前に、松内さんは言葉を継ぎ足した。こういうことのできる人が、大人なのかもしれない。私は、私の不器用さを確かめるようにして視線を落とした。
「評判、悪くないわよ。あなたの歌。仕事も増えているしね」
「あ、どうも……」
 つまり、私は人と会話するたびに自分が無能であるような気がしてくるのだ。少なくとも、相槌を主とした会話能力が欠けている。それは少なからず、私を落ち込ませた。また、それに関しては諦めている自分を自覚する瞬間でもあった。
「最初は本当に、大丈夫かしらって思ったんだけどね。あなたは」
 松内さんはそう言って懐かしそうに目を細める。私は松内さんのほうを向いて聞いてみた。
「……思ったんですか? その、大丈夫かなって」
 そう言うと松内さんはうーんと唸って、苦笑した。
「そうね。やっぱり、最初はそうよ。あなたの歌はその……とにかく感情がこもっていないじゃない? 良く言えば波が無いんだけれども、そういう歌だと、受け入れられ辛いんじゃないかしらって。 やっぱり何処か揺さぶるものが無いと、こういう世界でやっていくには難しいと思うから。それ自体は、私は今でもそう思っているんだけどね」
 私はうなずく。それに関しては、私もそういうものだろうと思っている。むしろ今、私がこうして歌っていることが不思議なくらいだ。そういうやり方にしないと上手くはいかないだろうな……とは分かっていても私には今のような歌い方しかできなくて、でもそれを続けているうちに、不思議なことに私の前には歌う仕事が用意され出した。本当に、不思議な話だ。
「あなたはその理由に、見当がついてる?」
「……いえ……あの、さっぱりです」
 私は首を振る。松内さんは嫌味の無い態度で、そうでしょうね、というようにうなずいた。そして真面目な顔でハンドルを右に回しながら述べた。
「私が思うに、あなたにはある種の才能が無くて、それが、欠けていることが引きがねで別の才能を生み出したんじゃないかしら。その、状況的にね」
 一つ一つ言葉にしながら、松内さんはそれに間違いが無いかを確かめるようにして口に出していった。
「……難しいですね」
 本当に、相槌の才能の無さだけは自覚する。それ以前に、言葉を理解することもおぼつかなかった。足りないものばかりが、浮き彫りになっていく。
「そうね。難しい。でも恐らく、そういうあなたの歌はこれからもっと必要とされていくんじゃないかしら?」
「そうですか……?」
「……まあ、そうなるように頑張るのがマネージャーの仕事なんだけれどもね」
 唐突に車が止まる。驚いて辺りを見回してみれば、それは私の家の前だった。
「あ……」
「まあ、頑張りましょう。くれぐれも体調の管理には気をつけてね。あなたの場合、食生活にも無頓着そうだから……」
 そう言って松内さんはくす、と微笑んだ。私は礼を言い、松内さんのスバルが静かに住宅街の向こうに消えて行くのを見守った。
 空を見上げても、今が何時なのかは分からなかった。二時から四時の間、といったところだろうか。車内の時計を見ておけばよかったと思ってから、果たして今が何時であるかということが本当に大切なことなのだろうかと思い直した。
 今が何時だろうとも、それは何の結論にも導いてはくれない。
 無性に、コーヒーが飲みたくなった。

「ただ……いま……」
 ヨウが、私が出かけた時そのままにやかんの蒸気を睨んでいたので、私は少し混乱してしまった。びっくりした鳩のような目をして玄関に立ち呆けている私に、ヨウは訝しげに近寄ってくる。そしてそのことをヨウに告げると、ヨウはお腹をかかえて笑った。体の芯から愉快そうにして笑った。
「馬鹿だねえ、インは。出かけた時からずっとお湯沸かしているわけないじゃないか。蒸発し尽くしちまうよ、そんだけ火にかけてたら」
 「二杯目だよ、二杯目」と言って空になった手持ちのポットを指差す。それでようやく、ヨウが絵を描く時に、飲み物をかぶ飲みすることを思い出した。
 私が納得したようにうなずいているのを見て、ヨウは今度、目を細めて疑りぶかい表情で言った。心底、あきれ果てているような表情だ。
「あんた……そんな調子ですっ呆けたことしてないだろうね? 仕事先で」
「いや、そんなことは無いけど……」
 多分……と私が小声で付け加えるのを聞かずに、ヨウは回線が切り替わったかのようにして真顔に戻った。
「まあいいけど、それで? あんたもコーヒー飲むかい?」
 私は(とても浅いレベルで)複雑な心中を感じたままコートを脱ぎ、大雑把に返事をした。何であれ、双子であることの特殊性は、時にありがたかった。

「それで……絵の調子はどうなの?」
 カップに息を吹きかけると、蒸気が吹き返されて前髪を揺らした。
 ヨウは得意げに椅子に肩肘をかけて、後ろの二足でバランスを取るようにして椅子を揺らしながら、テーブルの向かいの私に言った。
「悪くないね。なかなか、革命的なヤツになりそうだよ」
「……また転ぶよ?」
 ヨウがそうやって椅子で転ぶのを、私は子供の頃から何度も見てきた。昔は一週間に一度のペースで転んでいたが、今は月に一回というところか。
「大丈夫だって。私だって、もうすぐ二十歳だよ? ……ま、あんたもだけど」
 そう言ってヨウは、コーヒーを無造作に口の中に流す。私達の中で、猫舌は私だけだった。その点については、昔から釈然としないものを感じている。
「まあ、あとは時間をかけ過ぎないようにするだけさ。ぱぱっとでかさないと」
 私は首をかしげる。
「良い絵になりそうなら、時間をかければいいんじゃないの?」
 また見当違いなことを言って馬鹿にされるのかと思ったが、ヨウは真面目な顔で小気味良く首を振るだけだった。それからまたコーヒーを流し込み、カップを置いてから言う。
「時間をかけると逆に駄目になっちまうものも……あるぜ?」
 そう言って皮肉そうに笑う。或いは、本当にそれは何かに対しての皮肉なのかもしれない。でも私には、その皮肉の対象の見当すらつかなかった。
「やっぱね。こう、信長的な絵ってあるんだよ。見るほうを、世界観ごとズバって斬って落とすような、さ。殺してしまえホトトギス、みたいな」
 私は曖昧に返事をする。そんな私を見てヨウは不満げに口を尖らせてから、コーヒーを脇に寄せてテーブルに突っ伏した。そして顔だけを上げて私を見る。なんだか、とても納得のいっていないような表情だった。
「あんたってさ……私が言うのもアレだけど、変な奴だよね」
 私は少しの間コーヒーの表面で揺れる光を眺めてから、同じようにカップを寄せてテーブルに突っ伏す。
 そして、すぐ真横のヨウの顔と向き合った。
「……んん?」
 ヨウは意外そうな表情で私の顔を見ている。私はしばらく無言で、ヨウの息遣いを聞いていた。
 本当に、近くで見れば見るほど同じ顔だな、と実感する。
「…………」
「…………」
 ヨウが私の顔を見つめ、私がヨウの顔を見つめる。
 頬にかかった髪も、釣り目がちな目も、細い肩や首も、まるで同じだった。それはもし誰かが見れば、鏡を見つめる女の図として写るのかもしれない。
 しばらくそうやって肘の触れる距離で見つめ合っていると、ヨウが呟くようにして言った。その声が一瞬自分の声であるかのように聞こえて、私は少しだけ混乱した。私とヨウの声は、その他の身体の特徴と比べて幾分質の違うものだからだ。まったくの別人、と言ってしまってもいい。しかし、その時ヨウの口から出た声は、やはり自分の声であるように聞こえたのだった。
「嫌なことがあった……ってわけじゃないね」
「…………」
 私は少しだけ口を開けて、何かを言おうとした。しかし何か言おうと思い紡いでいた言葉は、私の胸の辺りで数本の細い糸に絡め取られて、その行き場を無くしてしまった。私はその光景を、視覚的に眺めたような気がしていた。
「何か、考えるべきものが見つかりそうで……探してる」
 肯定を促すように、ヨウの目が私に問いかける。私は目を伏せ、まばたきと同時に、もう一度ヨウを見つめ返した。それだけで、私達は意志を認め合うことができる。
「そのヒントはもう、幾つも見かけている。けどまだ紡ぎ出せずにいる」
「十年前」
 私は、無意識から這い出してきたその単語を呟いた。ヨウは、その言葉のせいでスイッチが切れてしまったかのように止まった。止まった時間の中で、私の目を見つめている。
「私が見つけたいものは、或いは十年前から視界のすぐ側に隠れているのかもしれない」
「…………」
 ヨウは沈黙の中で口を閉ざし、正しい返答を探しているようだった。それはきっと無駄なことなのだ。インの中に存在するかもしれないものは、しかしヨウの中には存在しない。それが重要なものであればあるほど、それはやはり、固有の存在であるはずだからだ。
 インとしての私は、首を振る。振る、というよりかは揺らす、と表現される程度のものだ。それは私達の“接続”を切るきっかけとなった。そのきっかけは、毎回変わる。しかしそれがきっかけであることは、やはり私達二人にとっては同時に分かり得ることなのだった。
「……だから、考えてみないといけないんだと思う」
 私は体を起こす。両手を膝の上に乗せて、うなずいた。ヨウは突っ伏したままごろん体を転がし、首を上げて私を見上げた。
「あんま難しいこと考え過ぎて、今よりもっとネジ外すなよ?」
 ヨウはヨウの声で、口の端を吊り上げながら言う。
「そんなことは、無いと思うけど……」
 多分、と私が付け加える前に、肩の跳ねあがるような衝突音とカエルがひしゃげるようなうめき声が上がった。ヨウが転がり過ぎて、テーブルからずり落ちたのだ。私はそれを、テーブルの脇からそっと見下ろす。
「……大丈夫?」
「……いてーよぉー……」
 途端に、なんだか体の芯をくすぐられたような気がして、私は吹き出すようにして笑った。恨みがましい目で睨んでいるヨウの顔を見ても、余計にくすぐったさが増すばかりで、私はしばらく体を押さえて笑い続けてしまった。

 それだけ爽やかに笑ったのは随分久しぶりであるということに、私は後になってから気がついた。ヨウが無様な格好で倒れている光景は、まだしばらく私の中で笑いのネタになるような気がする。
 或いは、あれはヨウの思いやりだったのかもしれない。昔から照れ隠しにそういうことをする部分が、ヨウにはあるのだ。それは私を慰め、励まし、そっと背中に手を当てるような優しさを私に感じさせる。そういう意味では、ヨウは私への姉としての接点を見出して、私に感づかれないように触れているのかもしれない。それはどこかくすぐったいが、心地の良い温もりであるような気がした。
 問題はまだ何も解決してはいない。ただ、そのシルエットは幾分か和らいだのではないかと、私は思う。

 ×月 ×日 追記

 夜中にふと目覚める、という夢を見た。
 不思議なもので、目覚めたことが夢であるという自覚があったのか、その夢が終わり、深い暗闇がシーツのように私を覆う時、
「なんだ夢か……」
 と私は呟いたのだった。それは、当たり前のようにして呟いた一方、不思議な経験であったような気がする。

 私は霞みがかった視界に手の平を掲げ、何度か握ってみる。蜘蛛の巣が張り付いたような意識でぼんやりと天井を見上げ、それから全身を思い切り硬直させてみる。背骨から後頭部、体の中心から手足の先端までを、音を立てて血液が流れて行くような気がした。私はゆっくりと深呼吸するように、とても大きなあくびをした。酸素が体中に行き届き、心地良く覚醒していく。
 それから私は、幾分蜘蛛の巣の取り払われた意識で改めて天井を眺めた。ザラザラとした冷たいコンクリートが、私の部屋の全ての音を吸い取っている。いつもの私なら、寝付きも寝起きも悪いほうではない。不規則な時間に寝ることが多いのだけれども、いつも決まった時間に目を覚ますことが多い。
 けれども、今はまだ昨日の疲労が残っているような気がした。
 今日一日の予定が無いことを頭で確認して、再び毛布に潜る。横向きに縮こまり、胎児のようにして心地良いシーツの表面を指でなぞっていると、やがて静かに潮が満ちるように私の中に眠りが染み渡っていった。

 誰かが、玄関先で話している微かな振動と空気の震えが、私を浅い覚醒状態に引き戻した。応対しているのはヨウだ。身に染みた声の様子で分かる。
 私はベッドから這い出て、小さく唸りながら着替えた。ソフトジーンズをはき、白いパーカーを羽織る。
 何時頃だろう。時計を持たない私には、確認することができない。そもそも、私の普段の生活には時計など必要無い。困るのは、こういう時だけだった(そしてこういう時だからといって、本質的に困るわけではないのだ)。おそらくまだ昼前であるような、気はする。なんにせよ少し寝過ぎてしまったようだ。
 私は急いで一階に上がる。大方、うちに来る人間の多くは私の仕事の関係だ。
その次に多いのは訳の分からない集計人や勧誘員などで、そういうものの対応はヨウのほうが得意だった。だが今回はそうではないらしい。空気を震わせる、落雷のようなヨウの怒鳴り声が聞こえてこないからだ。そういう相手に対して、ヨウは容赦無い。ここぞとばかりに怒鳴り散らし、相手以上に理不尽な理屈を無理やり耳の奥に詰め込んで、追い返すのだ(時にそれは、理屈ですらなかった)。ヨウにとってそれは定期的なストレス発散法であるようで、追い返した後にはすぐに飄々とした普段のヨウに戻っていた。
 しかし私のどの予想とも、現状は違っているようだった。私がリビングに入るドアを開けると、一階にはもう誰もいないようだった。見れば、整然と外向きに揃えられた高そうな革靴が玄関の隅に置かれており、二階からはヨウと誰かが話す声が聞こえてきた。
 私は首をかしげながらキッチンに向かい、ガラスのコップに水を注いだ。何度かに分けてそれを喉の奥に流し込む。それから私よりも二回りくらい大きな冷蔵庫を開き、陶器に入ったポテトサラダを取り出した。
 私はそれを機械的に平らげ、陶器とスプーンを流しで洗う。謎の来客はまだ二階で、なにやらヨウと話しているようだった。椅子に腰掛け、テーブルに両手を投げ出す。そして天井を眺めた。
 上でヨウと話しているのは、男だろう。まず靴がそうだし、微かに聞こえる話し声も何かの弦楽器のように低音だった。普通の男の人の声よりも低いのではないだろうか。
 ヨウの声には、何の感情もこもっていないようだった。不機嫌なのかもしれないし、心底相手を軽蔑しているのかもしれない。もしくは、私の耳の加減でそう聞こえているだけなのかもしれない。答えは、テーブルの上には見つかりそうになかった。十年前なら見つかるかもしれない。

 そう、十年前だ。

 私はそれを考えなくてはいけない。きこりが木を切るように、私は十年前について考える必要がある。
 一体、十年前の何が私の頭に引っ掛かっているのか。
 何故、十年前なのだろう。八年前や五年前ではいけないのだろうか。

 踵に張り付いた私自身の影のように、それはその存在だけを私の頭に刻み、その意味については頑なに黙秘しているようだった。
 私の中のことなのに、どうしてこうも思い通りにならないのだろう。私は表情を崩さずにため息を吐く。

 そもそも、理屈の通った話ではないのだろう。

 何もかも。そう、言うこともできる。でも恐らくは、それでしっくりくるほど簡単な人間ではない。私も、ヨウも。
 違う。これは私の問題だ。私から伸びた、私だけに語りかける影だ。その形も色も、何よりもその意味も、全ては私から生まれて私に還元されるべきものなのだ。
 そう自分に言い聞かせて、目を伏せる。難しいなぞなぞなんて無い。クイズとは違う。簡潔に、単純にものを見ることができれば、どれだけ楽だろう。
 私は、私の影を追い続けて、ぐるぐると回るのだろうか。
 そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

 あらゆるものの答えは、一階を隅々まで探しても見つかりそうになかった。

 やがて、階段の軋みと共に振動が近づいてきた。私は椅子から立ち上がって、テーブルの端に手をかける。二階に上る階段のドアが開き、ヨウと、その後ろから見知らぬスーツ姿の男が出てきた。
「ん? 起きてたんだ」
「うん」
 二十代の後半、くらいだろうか。一言で言うなら格好の良い人、だと思う。背が高くて、スタイルも良い。目鼻立ちも整然としていて、彫りの深い顔立ちに穏やかな笑みを浮かべている。艶のある髪も、短く清潔にカットされていた。高そう、どころではないレベルで高価そうなブランドものの黒いスーツには、当然のように皺一つの存在さえ許されてはいなかった。
「驚いたね……双子だったのか」
 さっきから微かに聞こえていた声の通り、聞いたことが無いくらいに低く、高級そうな声だった。口元には、絶えず心を許させようとする笑みが浮かんでいる。恐らくは、ほとんどの人はそうなるのだろう。
 だが何故か、私はこの男性に好意を持てなかった。もう少しちゃんと言うと、深い深い私の奥底で嫌悪の感情を沸き立たせる何かが、この男性にはあるようだった。それは理屈ではないことで、少なからず私は驚いていた。
「よく似ている。君も絵を?」
 スーツの男は手を掲げて、私にそう尋ねてきた。
 私はヨウを見る。ヨウは、今日も申し合わせたかのように私と同じ格好をしていた。色だけが違う。赤いパーカーに、黒いジーンズをはいていた。
「絵は描かないんですよ、インは。歌の仕事してますけどね。双子ったって似てるのは外見ぐらいで、性格に至っては真逆って言ってもおかしくないんですよ」
 ヨウは軽く笑って男にそう述べる。
 間違い無く、ヨウの声には嫌悪感が混じっていた。私とヨウだけに分かる類のことだが、だからこそ、私にはヨウがどれだけこの目の前の男を忌み嫌っているのかが良く分かった。
「分野は違えど、芸術系の姉妹というわけだ。なんとも、凄いね。仲は良いのかい?」
「まあ、悪くはないですね。そこ辺りは。普通の兄弟と変わらないんじゃないですかね」
 そう言ってからヨウは、ははっ……と笑った。私は、いつヨウが怒鳴り散らしてこの男を玄関の外に放り出してしまうのかとハラハラしていたが、どうやらそういう事態にはならなそうだった。
「私は一人っ子だったからね。仲の良い兄弟というのは、見ていて気持ちが良いんだ。君達には、分からないことかもしれないけれども」
 そう言って男は微笑み、胸のポケットから黒い革の名刺入れを取り出す。そこから一枚名刺を抜き取り、逆再生のようにして名刺入れをポケットに収めた。
「じゃあ、これで失礼させてもらうよ」
 そう言って、スーツの男はヨウに名刺を手渡してから出ていった。

「画商だよ。私ら絵描きから絵を買いとって、売りつけるんだ」
 ヨウは不機嫌な様子を隠そうともせず、重苦しいため息を吐き出して言った。リビングのソファに座り天井を仰いでいる。
 私は椅子を引き、そっと腰掛ける。
「……じゃあ、ヨウの絵を買うの?」
「全部買うってさ。それで、全部売るつもりなんだ」
 ヨウは天井を仰いだまま、無感情に言った。それから、中空に放たれた自らの言葉の形をなぞるようにして事実を確かめているようだった。
「私もさ、これまで絵を描いてたのは遊びでやったわけじゃないんだよ。それはもちろん、最終的には生活とか、そういう類のものに還元されないといけないわけで、そういう意味じゃ仕方の無いことかもしれないけど……」
 けれどもさ……と、ヨウはとても悲しそうに続けた。
「私も、小さいけど所属してるところがある。若い絵描きは、大抵どっかに所属するんだ。それで絵を預かってもらって、展覧会みたいなことをやって、少しずつ誰かが買っていく。もちろん、そういうことは頻繁じゃないんだけど。頻繁じゃない展覧会で、絵が売れるのも頻繁じゃないわけだから、当然実入りは少ないんだ。……まあ、多少のフォローは入るけど。でも、絵描きはそうやって成長していくもんなんだよ。程度の差はあれ、みんな」
 ヨウはそれからうつむいてから少し考え、頭を苛ただしく掻いた。そして勢い良く立ち上がり、両手を広げて舞台役者のようにして語りかける。
「一つには、私は個人的に、精神的生理的なレベルであの男が嫌いなんだ。どうしようもない。何故だか分からないけど、そう感じずにはいられない」
「……分かるよ。なんとなく」
 私が呟くように言うとヨウは納得したようにうなづき、左右に揺れながら何かに訴えかけるようにして地下へのドアの前まで歩いていった。
「また一つには、あいつはこれまでだけじゃなくて、これから描く絵までしばらくは買い続けると言った。これは、絵描きとしては、ある意味での成功だよ。認められる為に頑張っているのなら、これ以上無く認められたということなんだからね」
 冷たいドアの表面に肘をつき、そこに頭をうずめる。
 私はヨウの背中を見つめ、次の言葉を待った。
「一つ。私はそうやって、他の絵描きから抜きん出て選ばれるだけの力を持った人間なのかということに、自分自身で納得できていないんだ。付属して言うと、私だけ楽をしてもいいものだろうか、という話でもある。それは、言ってみれば世間体的な意味合いだよ。世間体なんて大っ嫌いだけど、大きなことを決めようとする度に目の前に飛び出してくるんだ。強い力で、無理やり向きを変えようとする乱暴な奴なんだよ」
 ヨウは振り向き、天井を仰ぎながら二階へ向かう階段のドアまで歩く。
「そして一つ……これが最も大きい。今回一番私を揺らしたことで、また確信を持って意志を固めることができたことでもある」
 そう言ってヨウはありったけの空気を吸い、ありったけのため息をついた。ドアの前で立ち止まり、その向こう側を睨むようにしてヨウは述べる。
「私は、あの男の提案を聞いて、迷ったんだ。迷ったこと自体が、私にとって何よりも問題なんだ。それで、私は私のスタンスに疑問を持ってしまった。私を支えていた確固たる自信は、その瞬間に瓦礫の山に変わってしまったような気さえしたんだよ。もちろんショックだったし、同時に何かが冷めてしまった」
 ヨウは振り向き、髪が乱れるほどに首を振った。それから私を見つめる。
 その頬には、涙が伝っていた。
 それは少なからず、私を動揺させた。
「それでも、多分私は絵を捨てることはできないし、描き続けるしかないんだ。それは、もう嫌ってほど分かってる。だから、私は迷っちゃいけないんだ。本当は迷っちゃいけないのに、迷ってしまうような弱いスタンスのまま絵を描いていたんだよ。これは、私にとって最も重要で致命的な失敗なんだ」
 だから! と叫び、ヨウはパーカーの袖で目を乱暴にこする。
 しばらくの沈黙が、唐突に訪れた。
 五分ほどだろうか。部屋にはヨウの荒い呼吸の音だけが響く。その呼吸も、やがて引き潮のようにして収束していった。
「私は、揺らがない自分のスタンスを作って、納得できるものだけにうなづける強さを身につけるんだ。それまで、何にも所属しないし、誰にも絵は売らない」
 そう、ヨウは呟く。
 ヨウはテーブルの上にさっきの男の名刺を置いて、乱暴に椅子に座った。笑っているような泣いているような、情けなくて中途半端な表情だった。

 私は微笑む。

 恐らくはそれしかできないし、それ以外はみんな嘘になってしまいそうだった。空気は緩やかなようで張り詰めてもいたし、問題はまだ何も解決していない。それでも、私はヨウのために精一杯の微笑みを向けた。
 できることは、私の頭ではそれしか思いつけなかったのだ。

 十年前。

 そこに何かがあることだけは、分かることができるのだけれども。

 それから何日か過ぎて、私とヨウは二十歳になった。
「七面鳥が食べたい」
 というヨウの希望で、私達は時期外れのクリスマスパーティのようなささやかなお祝いをした。ケーキは二人で作った。
 私もヨウも、それで何かが変わるとは思っていないのだろう。決められた節目よりも突然訪れる出来事の方が、色々なものを変えていく。それだけは、私達にもよく分かることだった。だから私達は、ゆっくりと近寄ってくる透明なラインにタイミングを合わせるようにして、その瞬間にクラッカーの紐を引いた。

 そうして私達は、ゆるやかに一つの境界を越えたのだった。

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コメント

繰り返し繰り返し読みました。
今回も、物語の中に吸い込まれて行くような不思議な気持ちがした。インとヨウ、ふたりと同じテーブルを囲んでふたりの話を聞いているような、あたかも物語の登場人物のひとりになったかのような。
描写もとても丁寧で、逢崎さんの職業は歌手なんではないかしらと疑ってしまったくらいです。(大袈裟でなく。自叙伝なんかしらと思った)

物語を書く者は、読み手に見えるはずのない景色を見せなければならない、感触、香りすら感じさせねばならない、そう思います。しかしながらそれはなかなか難しくて。読み手が物語の傍観者になってしまって、主人公と同じ感情を分かち合えないまま読み終わってしまうというのは哀しいことです。私は独りよがりのものばかりを書いてしまうので、物語の深みに読み手を誘える逢崎さんの文才をとてもうらやましく思います。

インがそこまで十年前にこだわっているのは、何故なのかしら。十年前は九歳ですよね。《九歳の私は十歳という節目のときに何を考えていたのか》を、思い出そうとしているのかしら。なんて勝手な解釈を思っていたら、何故だか漠然と懐かしい思いが込み上げてきて困りました。無意味なことを考え続けて心を腐らせたり奮起してみたり、なにしろとりとめなく鬱々と考えていた十代。それでも呼吸をやめずに、大人の一歩を踏み出したこと。九歳の私はきっと十九歳の私より聡明で正しかったろう。それだけは思います。

ところでひとつ…。
少し残念に思ったのは…。

ヨウが自分の考えをまくしたてるシーン。どこか説明じみてしまって、「」(かぎかっこ)でくくるには少し無理があったのでは、と…。相手を前にしての会話ぽくなくなってしまっていて、同じ空間にいるインの影がひどく薄くなってしまっている、それをもったいなく思いました。陰と陽をその言葉通りに象徴しているということであったとしても、あのシーンだけ作品の中で若干浮いてしまっている気が致します。


勝手なことを長々と御免なさい。でも、読んだことで様々な事象を考えさせられました。的外れなことばかり書いてしまったかも知れませんが、どうか気を悪くなさらないで(_ _)
また、何かお書きになったら読ませてください。楽しみにしています!!!

投稿 エス | 2008年4月26日 (土) 20時45分

こんな長いものを読んでいただいて、ありがとうございます。
羞恥心がぶるぶる震えております…。

今思い出せるのは、この時の自分ほど恐る恐る次の一文を迷いながら書いたことはないということです。話の終着点を決めず、霧の中に手を差し入れて、掴み出したものをなんとか文章にする……そのようなやり方で書いておりました。
何か意味のあるものを書こう、とだけ、思っていました。

何をすべきか、何ができるのか、どう立ち向かえるのか。この辺りが、恐らく当時の自分の込めたテーマだったのだろうとは、思います。着地のさせ方が強引だな…と読むたびに顔をしかめつつ…(汗

現実の自分自身が把握できていないものを無理に文章に入れ込もうとしても無理がでる、というのが自分の経験則なのですが、後半に出した画商が、まさにそれにあたります。彼はとある物の象徴でした。
ヨウは自分の書くものの中では珍しく“動く”人物で、その動きにまかせたら、ちょっと喋らせ過ぎたかもしれません(笑)
インは自分自身……と言いたいところですが、自分にとっての一つの憧れであり、否定すべき人格であり、それでもやはり切り離せない自分、といったところでしょうか……。

うーん……書き手が語りすぎるのは何だかみっともない……
でも昔のだし、自分の中で終ったものだし、いいや!どうにでもなれ!なんて思って色々語ってしまいました……。


ご感想、ありがとうございます。
エスさんに読まれて、この文章も本望だったと思います。

投稿 逢崎 | 2008年4月27日 (日) 21時02分

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